今日も京都の隅っこから

京都の隅っこの大学生

舞鶴の海軍遺構めぐりと廃線の赤レンガトンネル

京都に遊びに来てくれた高校時代の友達が「舞鶴に行きたい~」と言うので、日本海側まで遠出してきました。舞鶴鎮守府は気になっていたので丁度いい機会です。


舞鶴線に乗って東舞鶴駅

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旅の始まりは東舞鶴から。舞鶴線の終点ですが、線路は小浜線と連絡しているので途中駅みたいです。実際にかつて「特急まいづる」は小浜線に乗り入れていました。


ところで小浜線って電化されているんですね。列車の本数が少ないうえに京阪神からはバスで行った方が安く速い、おまけに沿線には大きな町がないのに。


調べてみると電化に際して関西電力日本原子力発電北陸電力が合計54億円を寄付したみたいです。沿線に大規模な原子力発電所がいくつもあるのに、小浜線が非電化のままなのは地元も納得できなかったのでしょうか。


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有刺鉄線に左右を囲まれた道路を歩いていると、突然「舞鶴自衛隊病院」が現れました。いかにも基地の町、舞鶴らしい光景です。


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水兵さんの一団ともすれ違います。キビキビした動きを見て、思わず自分も反射的に背筋を伸ばしてしまいます。


格好いいです。とても同年代とは思えません。生まれてこのかた、団体行動が大嫌いな自分が彼らのようになるには、根性からたたき直す必要があると思うけど。



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海沿いの道に出ました。奥のアパートと大きさを比較したらイージス艦がいかに大きいか分かるはず。友達が(ヲタク特有の)早口でなんか力説してくれたけどさっぱり頭に入らなかったぞw


舞鶴引揚記念館と引揚桟橋

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駅から4キロほど歩いて、最初の目的地である「引揚記念館」へやって来ました。


舞鶴と言えば兎角、海軍関連遺産が強調されますが、ここが引揚港だったことは忘れてはいけません。この町は終戦後すぐ、大陸から多くの引揚者を迎え入れました。


一方で、ソ連によってシベリアなどで抑留されていた元軍人や一部の民間人は長らく帰国を許されず、最後の引揚船が舞鶴に入港したのは1958年のこと。13年にも渡る引揚で、大陸中に散らばっていた計66万人もの日本人が、ここ舞鶴の地から本土に帰ってきたのです。


この記念館はシベリア抑留に関する展示が充実しており、抑留されていた方々のエピソードや手記、遺品は涙なしに見られませんでした。


写真はOKだったにもかかわらず、展示品に見入ってしまい結局一枚も撮らずじまいに。ブログとしては失格ですが、自分とそんなに歳の変わらない若者の人生がそこに詰まっていると思うと、とても撮る気になれません。


だからこそ、記念館の最後に、舞鶴姉妹都市、ロシアのナホトカとの交流事業ブースで子供達の笑顔の写真を見たときはほっとしました。ナホトカは引揚船の出発港となった町。悲しい歴史を乗り越え、今新たな時代がつくられつつあります。


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記念館裏手に元抑留者達が収容所ごとに一本ずつ植樹した木々が並んでいました。


極寒、飢餓、重労働、思想教育により6万人もの方が犠牲になりました。辛うじて生き延び、再び祖国の地を踏んだ抑留者達は何を思ってこの木を植えたのでしょうか。


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丘のてっぺんからは舞鶴湾を一望できます。漫画家の赤塚不二夫さんは、満州から引揚げたとき、舞鶴の緑の山々を見て感動したそうです。綺麗な景色であることは間違いないが、それ以上にいろいろな思いが重なったのでしょう。


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かつて引揚船が着いた(正確には湾内に停泊した船からボートに乗り換えて上陸したそうだが)桟橋が復原されているというので行ってみました。


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岸壁の妻という話があります。シベリアからいつ帰るかも分からない夫に会うため、連絡船が着く度に、子供を連れて多くの女性が舞鶴までやってきたそうです。


平和の鐘を3回ならして黙祷してきました。思いが海の向こうまで届くように。


舞鶴鎮守府 赤レンガ倉庫

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いよいよ湾の対岸にある舞鶴鎮守府をめざして歩き出します。


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舞鶴鎮在府はロシアに睨みをきかせる海軍の基地として1901年に設置されました。初代司令長官は東郷平八郎です。日露戦争の時、主要な艦艇はすべてここから出港しました。ちなみに大河ドラマ坂の上の雲」のロケ地でもあります。


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本当に左右対称です。道の真ん中に立つと奥へと吸い込まれそう。だからこそ背景の三次関数的な山の輪郭が際立ちます。素晴らしいです。


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あまり手入れされていない気もしますが、横浜の赤レンガみたいに再開発して過度の商業化に走るのも興ざめだから、このままでいいかも。


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海軍時代の引き込み線の跡も残っていました。


自衛隊桟橋と旧海軍機関学

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続いて自衛隊桟橋へ。土日は一般公開しているため、誰でも目の前で迫力満点のイージス艦を見ることができます。


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自分はミリタリー系に関する知識を持ち合わせていないので詳しいことは全然分からないのですが、巨大なイージス艦を前にすると興奮します。


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イージス護衛艦「あたご」ですね。小学生の時、八丈島沖で衝突事故を起こしてテレビで頻繁に報道されていたので、名前だけは記憶にあります。


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ヘリコプター搭載護衛艦「ひゅうが」が停泊していました。ビル15階建ぐらいの高さがあるそうです。素人から見たら空母としても使えそうな気がするのですが。



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土日といえど自衛官は休めるはずなく、甲板で忙しそうに任務に当たっていました。


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今も基地内部には旧海軍引き込み線のレールが残っています。


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こういうのも面白い。


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旧海軍機関学校の講堂も残っています。こちらも基地内にあるので土日しか入れません。海軍記念館という名前で公開しており、舞鶴ゆかりの東郷平八郎の展示が多め。


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一歩館内に足を踏み入れてびっくり。なんだか違う世界に来たようです。ちなみにこの旭旗は日露戦争の時使われたもの。胸像は東郷平八郎です。


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つづいて湾を望む丘に登ります。舞鶴に基地が置かれたのは湾口が狭く、防御に適しており、また湾内は波静かで多くの艦船が停泊できるためでした。本当に鏡のように波ひとつ立たない水面です。


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山の中腹に浄水場があります。舞鶴に寄港する艦艇用の水を貯水していたそうです。


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アーチ状のレンガ構造が建築史上重要とかで国の重要文化財らしいですが、もはや自然に帰ろうとしていました。


国鉄舞鶴線の赤レンガトンネル

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ぶらぶら歩いて駅の方向へ。赤レンガ倉庫が自然な形で町に溶け込んでいます。


今歩いている道路は海軍引き込み線跡。中舞鶴線として旅客営業も行っていました。


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こちらは自分の持っている1949年の国鉄路線図。ちなみに戦前、東舞鶴ー中舞鶴間は海側の窓の戸を閉めなければいけなかったそう。もちろん軍事機密上の理由で。


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廃線跡には明治37年完成の北吸トンネルがあります。美しいイギリス積みレンガで、こちらも国の重要登録文化財


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あじさいが群生して咲いていました。


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舞鶴線に乗って帰路につきます。京都に来てからすっかり見慣れてしまった国鉄電車。いくらピーマンと揶揄する人がいようが、やっぱりこれが来ると嬉しいです。


しかしまあ、わざわざ京都まで来て北の端に行きたがるなんて物好きなヤツですよね。本人は満足して帰って行ったから別にいいけど。今年の夏は小浜線に乗るのもいいなぁーなんて考えてます。もっともその前に試験があるんですけどねw


今回は希望のゼミに行けるかどうかがかかっている大事な試験なので、7月になったらブログの更新が滞るかもしれません。まあ夏休みに入れば大旅行するつもりですし、この先も気楽にやっていこうと思います。